有名なイソップの寓話のなかに「ウサギとカメ」の話があります。競争するが、余裕綽々のウサギはカメに大差をつけた時点で気を抜いて寝てしまい、その間にカメはゴールするというもの。
ではここで問題です。競争の間、ウサギは何を見ていたのでしょう?
そう、ウサギはカメを見ていたんですね。カメよりも前にいくんだ!いま、どれくらいの差がついただろう?そんなことばかりを意識していました。
でもカメは、ゴールだけを見ていた。まわりとの差異ではなく、進みはゆっくりでも、着実に自分のものにしていったんですね。
人目を気にしていてばかり。まわりと比較してばかり。競合を気にしてばかり。それでは、何もできずに終わっちゃうんですね。
自分の人生は生きられないんですね。
たとえば、Googleは「Google の使命は、世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにすることです。」というゴールだけを見てきたんですね。もちろん、競合を意識して微調整をしないこともないでしょうし、ゴールに最短距離で到達するにあたり、他社から取り入れるべきものは取り入れることもあるんでしょう。
そんなことを、今日はある方からお話をお伺いしていました。
その方のお話で、もうひとつ。
それは、「人を利用する」ということ。「利用する」という言い方は悪い感じがします。ではなく、自分に活かす。ということ。自分のゴールのために。自分ひとりでできることなんて、ほとんどない。大きな人を成し遂げる人は、100のうち99は人の力。
大切なのは、「それが誰か」ということ。自分の将来にとって価値がある人。その人と中心的に時間を割き、一緒にいること。それは好き嫌いではなく、大切かどうか、関連性が高いかどうか。
そのようにして人に助けられたり、助けたりすることで、最終的には「幸せな老人になる」ということです。老人というものは、厄介者。体が動かない、ただ世話をされるだけのもの。になることがあります。しかしながら、徳のある人、それまでの人生で様々な人との関係性があれば、まわりが「あの人をなんとか助けよう」となるのだそうです。
老いて初めて、その人の真価がわかるということです。「早く人より成功する」ことがもてはやされる昨今ですが、寂しく死んでいく人も中にはいるわけです。人生の途上で、他人と比べてどうか、ではなく、自分のゴールに向かってブレることなく、歩んで生きたいものです。
私が思ったことは、
たとえば「明日死ぬかもしれない」ことを前提に物事を考えるべきだ、あるいはそこに大きなヒントがある、とする考え方があります。それはひとつの真理だと思います。
しかしながら、一年に春夏秋冬があり、それにそって計画的に、季節とともに生活をしていたように、人生にも同じく、大きな流れがあります。また普通に考えれば、明日死ぬ人よりも、老いるまで生きる人のほうが多いのです。
かつては誰もが老人と共に暮らし、「自分はいかに老いるか、死ぬか」という、そこまで明確に考えなくても、遠くに目線をやることができたわけです。しかし核家族化がすすみ、そのようなことは少なくなったのではないでしょうか。
目の前のことに、物質的なことに、ステータスに、・・・
ただ、振り回されて自分を見失い、大切なものを何一つ味わうことなく人生を終えてしまう。そんなリスクが極大まで膨らんでいるのがいまの社会ではないかと思いました。