Shibuya UX #10 『ネットワークメディアとアーキテクチャ』

4/19(木)19:30より、第10回のShibuya UX Meetupが開催されました。

株式会社コンセント代表取締役 長谷川 敦士さんを囲んでの会。その他のゲストには、ネットメディア各社のプロデューサー、UXデザイナー、等25名をお迎えしました。

内容の元となったのは、多摩美術大学情報デザインコースで12回にわたって実施された講義「ネットワークメディア論」の内容を、1時間にウルトラ濃縮した内容をご紹介いただきながら、ディスカッションしました。

事の発端は、昨年10月に開催された、Lean Startup Camp Tokyo 2011のレセプションにて、長谷川さん、と鈴木さん(サイバーエージェント/Shibuya UX世話人)との会話でした。長谷川さんから「いま多摩美でこんな講義をやってるんだ」というお話を聞くにおよび、「聞きたい!話していただけませんか?」とお願いしました。あれから半年たってしまいましたが^ ^;

講義の概要は、このようなもの。

コミュニケーション、コンテンツ、そして仕事のやりかたまで、既存のメディアはネットワークメディアによって置き換えられようとしている。そこではコミュニケーションの内容の変革もさることながら、コミュニケーションのしくみ(アーキテクチャ)も大きく変化している。本講義では、メディアを構成するアーキテクチャの違いに着目して、その結果現れる人々のふるまいの違い、コンテンツ自体への影響について考察する。

このようなことを考えるきっかけのひとつは、『CODE』(著:ローレンス・レッシグ)だったそうです(もともと長谷川さんの研究領域とも絡んでいるとのことでした)。
プロダクト提供者がつくるアーキテクチャにより、人々のふるまい自体が影響を受ける。その先の未来を決める。社会的責任だってあるんだよ。と。
アーキテクチャが制約を生み、人々のふるまいを決定づける。それはプロダクト提供者、あるいはユーザーの望みや意識以上に力を持ち、集団としての行動を導く強力な力を持っている。

時代の思想がどのようにアーキテクチャに影響を及ぼし、そんな彼らが生み出すアーキテクチャがどのように社会に影響を及ぼし、今にいたっているのか?その構造を俯瞰して見てみよう。そこから見えるのは何か?これからどうなるのか?自分たちが展開するメディアは、その中ではどのような位置づけなのか?というのが今回のお話の内容でした。

オープン化の思想背景が生み出した各種メディア、その最終形態としてのGoogleと、新しい世代のFacebookは何が違うのか?という話で締めくくられました。
この話についてはセッション終了後も数時間にわたり、話が絶えませんでした。

皆さんに感想を伺ったところ、「思ってたのとは違った!でも面白かった!」というようなものでしたw。普段の仕事ではなかなかそこまでパースペクティブを広げることがないので、考えるきっかけになった、というところでしょうか。

僕自身にとっては、アーキテクチャが行動や考え方を規定するというのが、冷静になってみると当たり前でありながら、考えが及んでいなかった点は否めないなあという点で得るものがある場となりました。
どうしても、ユーザーとのインタフェースよりの思考に陥りがちで、バックエンドの仕組みがもたらす結果については思いを馳せることがありません。これは具体的に整理して、サービスに活かしてみると面白いかもしれません。

以下、個人的妄想。

本題とはあまり関係ありません(笑)。

Facebookは、「幸せ中流パッケージ」なのではないかと思いました。ザッカーバーグはインタビューで、「友人に囲まれての学生生活はとても楽しかった。そんな楽しさを皆にシェアしたいと思っている。」という考えを述べています。

ERPがベストプラクティスを企業に持ち込むように、Facebookは個人の生き方のベストプラクティスを人々に提供している。といえなくはないのか。
それって大げさにも感じますが、世界中で増え続ける中間層に支持されるのは、やはりそんな性格があるのではないかなあと。

メディアが人類にどのような価値をもたらしたか、という視点で考えると、こんなふうになるのかとおもいます:
活版印刷は権力が独占していた書籍の民主化。
ラジオ・テレビは最新情報を得られる権力の民主化。

ソーシャルメディア&検索エンジン、は発信者になれる権力の民主化。
そのはしりはブログ。そしてTwitterは、テレビと同じように基本的にはフロー型。自分の好きなチャンネル(アカウント)をフォローして、見たい時に見る。フォロワーが多い=人気が高いほど、力を手に入れることができる。

ソーシャルネットワーク、特にFacebookは個人のストーリーの民主化です。
自分および関係する人とのやりとりを、メッセージングというフロー型で実現するだけでなく、それらをアーカイブし、自分の人生記録として(=アバター的な何か)、ストーリーが表現されます(ストック型コンテンツ)。
以前であれば、そのようなものを作るのには大変な労力がかかるはずでしたが、デバイスの進化等により、それが容易に実現できるようになりました。

「複数の友人と日々楽しくコミュニケーションする」ことにかけては、そのウェブサイト自体実現するのはさほど難しくはなかった。ただ、そこにシェアする「何か」をどう集めるのか、あるいは「いつ」「どこで」行えるのか、といったことも含めて価値が出るのが、スマートフォン登場を待たねばならなかったということなのでしょう。
例えば、「何か」でいえば美しい写真。「いつ」「どこで」はその場で、すぐ。

そんなわけでFacebookだけは違った性格を持っていて、どちらかというと「ポジティブなこと」を中心に、情報交換がなされるアーキテクチャを持っているのではないのかなあ、と思うわけです。自分のまわりだけかもしれませんが・・・。
これは自分のアイデンティティと密接に結びついている(名前で検索すれば出てきてしまう、など)ゆえに、いつ誰から見られることになるかわからない、という圧力が作用していることもあるのではないでしょうか。また、聞きたくない人の話しは、Timelineに自然に出なくなる、または出にくくなるように自分で設定することも可能ですよね。
となると、「みんな楽しそうにしてるぜ」「自分って幸せなんだ」と感じられるような、「幸せパッケージ」といえなくはないのではないでしょうか。
幸せになる権利の民主化、なんて。

この手の流れは今後加速するわけですが、今後はさらにコンテキスト特化であり、より「クリエイティブツールとしてのコンピューティング・デバイス」な使い方が広まってくるのではないかと思います。ジョブズが描いたような「人間の創造性を・・・のようなコンピュータ」の役割が広がってくるのではないでしょうか。Instagramはよい例だと思います。操作スキルと写真加工の知識が必要であったフォトレタッチを、誰もが楽しめるものに置き換えてしまいました。
自分のライフログやDNAといった膨大な情報をもとに、医学や統計学の知識が必要なことが誰にでもできてしまうかもしれません。語学が堪能でなくとも、世界上の人と意思疎通が楽しめるようになるかもしれません。
このような、「専門能力の民主化」はすでに起こっていますし、すでにあるソーシャルメディア、ソーシャルネットワークといったプラットフォームの上に広がってくるかと思います。

で、この手の妄想を広げていくと「具体的なプロダクトとしては、例えば・・・」などときりがなくなってしまうのですが、そのあたりは酒でも入れながら、別の機会にw。