Presentation Zen の 功罪

ご存知「プレゼンテーションzen」。

すばらしい本ですが、影響をうけて「わかりにくいプレゼンがさらにわかりにくく」なってるのを頻繁に目にするようになったと感じています。
自分もたまにですがプレゼンをすることがありますし、反省や今後のチェックリストとして、書き留めておこうと思います。

本の批判ではなく、「変な広がり方しちゃってるのではないか」という話です。

何がいけないのか

さて、PowerPointやKeynote等のスライドソフトを使ったプレゼンテーションにおいて、残念な例の多くは、本質を理解せずに「形から入ってしまった」ことに起因すると思われます。自分も社会人になって本格的に使い始めましたが、そもそもプレゼンテーションのトレーニングを受けたわけでもない、座学すらせずにとりあえずパワポを使ってみるという最悪な滑り出しだったと記憶しています。

さて、僕が思う「PresentationZenっぽいダメなプレゼン」とは。
「短いテキスト と 画像」のスライドを連発する(形は真似ている)けれど、要領を得ていない。というものです。

テキストがおかしい。トピックを書き出しているだけ。

  • だったら一枚のスライドに全トピックを書き出してくれた方が話の流れがわかって理解しやすい
  • 話し方とあいまって、結論が見えてこない。イライラを増長しているだけ。

 画像がおかしい。話の内容と関連していない。

  • とってもオシャレでクールなストックフォト。
  • 確かにテキストの意味とは「言語的意味として」関連しているが、話者が伝えたい「結論」「メッセージ」とはまるで関係ない。「さて、この話題とこの画像とのつながりは?」無駄な頓知みたいになってる。「あなたがしてくれる未知の話題を理解しようと聞き手はがんばってるのに、そんな暇ないんですけれど」という気持ちになってしまう。
  • 画像はインパクトが強いし、目がいく。頭にも入ってくる。ゆえに余計に、それと話の内容とのつながりが見えないと混乱する。つらい。

 

どうすればよいのか

そもそも何のためにプレゼンをするのか?「プレゼンという行為」にはどんなゴールがあるのか?を見つめ直す。これにつきると思います。

聞き手にどうなってほしいのか?を定義する。

プレゼーンテーションが終わったとき、聞き手にはどのような状態になっていてほしいのでしょうか?「これだけは覚えておいてほしい」といったものや、具体的なアクション「注文してほしい」「デートにさそってほしい」を期待するものもあるでしょう。
これが明確になれば、シナリオが見えてくるはずです。

必要な手段は何か?を選定する。

「まずはスピーチだけで伝える。それで足りなければ、必要最低限な何かをつけ足す。」ということ。
Face to Face でのプレゼンテーションという機会なわけですから、プレゼンターの表情や肉声といったものが最大の武器です。その中で、手段(武器)を選びます。

スピーチだけで伝わらないか?

それでだめなら

ホワイトボードへの書き込みで伝わらないか?

それでだめなら

準備した資料で伝わらないか? → その資料の一種が画面を使ったスライド

それでだめなら

スペシャルな何か (助っ人、寸劇、札束、etc.)

実はスライドなんていらないのかもしれません。むしろ、邪魔しているのかもしれません。

 

「じゃあ、お前はさぞプレゼンが上手いんだろうな?」と言われそうですが、
できてないからこうやってまとめているわけです!(キリッ